和歌山県生まれ。はじめ洋画を志し、白馬会洋画研究所、ついで太平洋画研究所に学び、文展にも入選した。渡米し、洋画を志すも挫折、日本の古美術の名品に出会い感銘を受けて帰国、翌年より日本画に転向するきっかけとなった。院展同人となるが脱退し、青龍社を樹立、超大作を出品し、青龍社を日本美術院や官展と並ぶ有力団体に育て上げる。1952(昭和27)年から1957(昭和32)年にかけて横山大観・川合玉堂と開いた「雪月花展」「松竹梅展」は、当時の三大巨匠展として話題になる。死後は遺言により青龍社は解散。
1959(昭和34)文化勲章受章。